私は、最近になって次のような考えにとりつかれております。
神や霊魂や気(オーラ)などは、実は物理的な事象としてすべて説明できてしまうのではないかしら。(もしくは数学理論、最新の脳科学、心理学)
今まで、宗教で説明されてきたような事柄を、宗教の教えのようなことを全く使わないで、物理の法則(量子論を含む)とか数学の理論など(脳科学、心理学)だけを使って、割と簡単に説明できるのではないかしら。(数学の理論としてフラクタル理論を想定しています。)
神さまというのは、「宇宙の法則」もしくは、「宇宙空間に存在する情報系」であると仮定すれば、いろんな宗教で言われていることを、それらの宗教の教えと必ずしもあまり矛盾しないような説明の仕方ですることが理解できるのではないかしら。
「愛は地球を救う」 というのは、「本音と建前」でいうところの建前とか、「そうだったらいいねえ というような夢」 とか 「甘い期待」 とか「努力目標」とか「こうあるべきだというスローガン」ではなくて、普通にそうなのではないか ということです。つまり愛が地球を普通に救うんじゃないか ということです。
宇宙は愛で満たされており、すべての人は神さまそのものなのです。もしそうじゃないように見えるとしたら、自分が神であることを知らない人がいるせいだけではないだろうか。もしくは、自分が神であることを、日常生活のささいな出来事に集中しすぎて忘れているだけ。
すべての人(動物も含む)は神様であり、愛あふれる存在なんだけど、あまりにもそれが当たり前(当然)のことすぎて、誰もそれを、いちいち口に出して言わない。口に出して言わないので、いつの間にか、うっかりと忘れてしまっている。
うっかり忘れてしまうと困る場合もあるので、宗教の中で「神」とか「愛」の説明を聞いて時々思い出すようにはしています。
仕事が忙しすぎて、ときどき、宗教の説明を思いだしている暇も、ない時があります。そこで、誰かがわざわざ「愛って大切なのさ」とリマインダーとして、他の人に思い出させてあげる必要があります。
その誰かっているのが、とりあえずは私かしら。もちろん誰でもいいんですよ
人は「愛の法則」とか「力を抜くこと」とか「すべてはひとつである」とかいうことを教われば、割と簡単に努力もしないで、いとも簡単に救われて、幸せになれるんじゃないでしょうか?
幸せになろうとして、一生懸命になればなるほど、そうならないのよ というような法則があるのではないかしら。
幸せになろうと思ったら、一瞬でなれます。「すでに幸せであることに気づけばよい」からです。または「幸せであることを忘れていたことに気づけばよい」からです。
ただし、「幸せであることを知らないふり」をする人はいます。そういう人を「うぶなふりをするぶりっこ かまととぶってる人 ぶりぶりぶりっこ かわいこぶりっこ」とか「知らないことにしておいたほうが得をするという損得感情のもとに、とぼけたり、しらばっくれたりする 老獪なたぬきオヤジ」と呼ばせていただくことといたしましょう。
実は、私も実は、たぬきおやじ のひとりなのです。たぬき はムジナともいいます。「同じ穴のムジナ」 みたいな人は時々みかけます。私と同類、仲間、友達なのです。だから喧嘩しないで仲良くしましょうね。
たとえば、次のような説明をさせて頂きます。
キリスト教(ユダヤ教、イスラム教)は唯一の神を信じる一神教であり、それに対して日本人は、八百万(やおよろず)の神を信じる多神教であると言われています。だから正反対?でありお互いに相手を受け入れられないかのような印象を受けます。
でももし、「宇宙の法則」が神様であるとすれば、「宇宙の法則」というたった一つ(唯一)の神様が、宇宙の中のいかなる場所に(あらゆる)場所にまんべんなく(八百万を超える数で)存在するという説明で、十分なんじゃないでしょうか。 どう思いますか?
私はいいかげんでちゃらんぽらんで間抜けであほです。声が小さく、アソコも小さく、気が小さく、まったく自信がありません。自分の言ってる(書いてる)ことにも自信がありません。
ここに書いてあることは、あまりうのみにしないほうがよいと思います。もしそうされるのであれば「自己せきにん」にてお願いいたします。
もしくは
「よい子はまねしないでね」
2018年3月27日火曜日
2018年3月25日日曜日
天才天界の才能を証明した「エイリアンインタビュー」「AREA51内部映像」日本語訳版!
この動画の宇宙人(実は未来の地球人)によれば、「死は存在しない。」とのこと。たぶん肉体は死ぬけれども魂は死なないということだろうと思います。
また、「私、君、彼はおなじひとつのもの 死によってわけられている」というようなことが出てくるが、これは「ワンネス」のことだと思います。「すべてはひとつでありつながっている」というようなkとだと思います。
目の前にいるあなたも私も、心の奥ずっと奥のほうではつながっている」ということだと思います。
相手の目をじっと見ると、つながっている感じがわかるのではないかと私は思っています。
目は心の窓 だからです。
また、「私、君、彼はおなじひとつのもの 死によってわけられている」というようなことが出てくるが、これは「ワンネス」のことだと思います。「すべてはひとつでありつながっている」というようなkとだと思います。
目の前にいるあなたも私も、心の奥ずっと奥のほうではつながっている」ということだと思います。
相手の目をじっと見ると、つながっている感じがわかるのではないかと私は思っています。
目は心の窓 だからです。
【衝撃】ポール・ソロモンの恐ろしい予言を検証 リーマンショックも予言。次の恐ろしい予言「日本の中に救世主がいる…」
救世主ってたぶん私のことだと思うんだけど、私みたいな「ろくでなし」が救世主だと知ったら、世界中の人が嘆き悲しむんじゃないかしら。
たぶん「自分たちは、こんなくだらない奴に助けてもらわなきゃならないのか。そこまで落ちぶれたのかよ」と思うと思うんだよね。プライドを思いっきり傷つけられたりして
ところで私みたいな最低男に助けられるということが、「世界を恐怖に巻き込む恐ろしい予言」なのだろうか?
小さいちん○んで、時々オナニーしているだけの、半分ひきこもりの中年(初老)の独身のつまらない男に、助けてもらったりしたら、そら悲しいのはわかるけどね。
「愛の法則」とか「すべてはひとつ」ということは知っているんだけど、人から聞いたことばかりで自分の発想というわけでもありません。
以前に仕事でじゃがいもの袋を箱に詰める作業をしている男の人を手伝ってあげたら、その人は頭を抱えて思いっきり悩んでいました。たぶん私に助けてもらったことが、彼にとってはショックだったようです。
それを見た時に、「私に助けられるってことが、そんなにプライドを傷つけられてつらいってことかよ」と思って自分もショックを受けてしまいました。
2018年3月19日月曜日
神との対話 (1999年から2000年ごろに購入)
この本を購入してからもうすでに20年が経っていますが、今になってようやくこの本の一部分だけがようやく理解できたような気になっております。
この部分の一部だけを要約して説明させていただきますと
「あなた方は、すでに神である。それを知らない。(それを知らない人もいる。)」
この部分の一部だけを要約して説明させていただきますと
「あなた方は、すでに神である。それを知らない。(それを知らない人もいる。)」
2018年3月9日金曜日
アマゾン の経営者が世界で一番 裕福?
2〜3日前に アマゾン の経営者が世界で一番 裕福? というような話を聞きました。
アマゾンのやり方は、ひょっとすると「上善水の如し」のやり方を取っているのではないのと、本日、気が付きました。(夜の8時頃、銭湯に行っている時にそう思いました。)
アマゾンのやり方は、次のような感じ
同じ商品について、他のサイトでも販売されている場合にはそれより低い値段で売る。
他のサイトで販売されていない場合には、十分に高い値段で売る。
つまり、ライバルがいる場合には値段 負けて
関連リンク
「上善水の如し」の職場への応用
http://chaos-fractal.blogspot.jp/2018/02/blog-post_6.html
2017年12月27日水曜日
少林寺拳法と ダーマ
日本で知られている少林寺拳法というのは、実は中国の少林寺とは直接は関係ないんですよね。
日本の少林寺拳法の総本山は、香川県の多度津市にあって、宗教法人として登録されているらしいのです。
少林寺拳法は、空手と似たような突きとか蹴り(剛法)と合気道と似たような体さばきとか関節技(柔法)が含まれたものですが、それ以外に少林寺拳法を使う人の心得(例えば悪いことのために使わないとかもっぱら護身術として使うとか)の教えも含まれています。
少林寺拳法の教えは、金剛禅少林寺とも呼ばれることがあり、金剛禅というのは仏教に基づいた教えのようなものだと私は認識しております。
金剛禅は、ダーマを信仰する宗教です。
なお、ダーマというのは、宇宙の法則のようなものだそうです。
日本の少林寺拳法の総本山は、香川県の多度津市にあって、宗教法人として登録されているらしいのです。
少林寺拳法は、空手と似たような突きとか蹴り(剛法)と合気道と似たような体さばきとか関節技(柔法)が含まれたものですが、それ以外に少林寺拳法を使う人の心得(例えば悪いことのために使わないとかもっぱら護身術として使うとか)の教えも含まれています。
少林寺拳法の教えは、金剛禅少林寺とも呼ばれることがあり、金剛禅というのは仏教に基づいた教えのようなものだと私は認識しております。
金剛禅は、ダーマを信仰する宗教です。
なお、ダーマというのは、宇宙の法則のようなものだそうです。
2017年12月25日月曜日
いじめネットワーク
私は、以前にあるボランティア団体に所属していたことがあります。(約17年前ぐらいだったと思う)
その団体では、「癒し」をテーマにしていろいろ話し合いをしたこともあります。
その時に、私は「世の中にはいじめネットワークのようなものが存在するのではないか」というようなことを考えていました。
例えば、学校で子供のいじめが起きたとします。いじめた子供は、実はその前に母親に厳しく叱られていたのかもしれません。厳しく叱ったその母親はその前日に姑にいびられていたのかもしれません。いびった姑はその前日に近所の別の女性から嫌味を言われてストレスがたまっていたのかもしれません。嫌味を言ったその女性は、その前に夫から冷たくされていたのかもしれません。冷たくした夫は、その前に会社の上司から仕事上のミスについてネチネチと説教を受けていたのかもしれません。説教をした上司は、その前に取締役から自慢話を聞かされてうんざりしていたのかもしれません。。。。。(以下ずっと続く)
学校でいじめられた子供は、「強いものは弱いものをいじめていいんだ。」ということを学習して、家に帰ってから、家で飼っている猫(とかペット)に残酷な仕打ちをするかもしれません。
世の中は、いろんなところでつながっており、そのつながっているネットワークを経由して、いじめが伝わっていく(伝播していく)のではないだろうか という仮説を私は立てたわけです。
この仮説を「いじめネットワーク仮説」と仮に呼んだとします。
「いじめられた人は、その腹いせに別の人をいじめて、スカッとする」ということが世の中のいたるところで繰り返し行なわれているのではないかという仮説です。 いろんなところで繰り返し、同じようなことが起きているという点でフラクタル的と言えると思います。
いじめられた人が、組織のなかで最も弱い存在で、それより下に弱い人がいないとします。するとその最も弱い人は、誰かをいじめることができずに、ストレスを抱えたままの状態になります。その人がストレスに耐えられなくなると、うつ病になって退職したり、自殺したり、逆ギレして刃物を振り回して凶悪犯罪を起こしたりするのではないでしょうか。
「いじめをなくすにはどうしたらよいか?」ということが、議論されることがあります。私はその解として、「たとえ、誰かにいじめられた時でも、(そのストレスを晴らすために)他の人をいじめない」というような方法(アイデア)を考え出して、それを世の中に広めてはどうかということを考えていました。
そのアイデアのひとつが、「癒し」ではないかと思うのです。いじめられて心がぐちゃぐちゃになっている状態の時に、それを癒すことができれば、他の弱い人をいじめなくてもすみます。いじめを伝播させずにすみます。
「癒し」のテクニックを編み出して、それをネットワークを経由して、世の中に伝えれば、いじめネットワークのいたるところでストップがかかります。そうすると、いじめがなくなり、平和な社会が訪れるかもしれません。(これは、なんと「世の中のいじめを俺様の手で止めてやろう。そしてそれがうまく行けば世界的なヒーローになってみせるぜ」という私の誇大妄想のひとつかもしれませんです。)
癒しのテクニックには、実はいろんな手段があるのではないかと思います。私は、例えば「好きな音楽を聴く」というのがそのひとつの方法だと考えています。「おもしろい話を聞いて笑う」とか「おいしいコーヒーをリラックスして飲む」などもありえると思います。
もうひとつのアイデアは、宗教の価値観をおおいに参考にさせて頂くということではないかとも思うのです。キリスト教では「相手を許す。」という教えがあったように思います。仏教でも「慈悲の心」というのがありました。
「自分より弱い存在を許す」、とか「慈悲の心で弱いものにやさしく接する」という価値観がそれじゃないかと思うのです。
さらに言うと、「癒し」の究極のテクニック(究極の極意)は一言でいうと「愛」のような気もします。
「愛は地球を救う」は、もともと世の中でよく言われている、みなさんがよくご存知のフレーズでございました。私ごときが改めて、えらそうに皆様に対して言うべきことではございませんでした。申し訳ございませんでした。この場をお借りしてお詫びさせて頂きます。
とりあえず、私の当面の関心事は、「癒しにはどのようなテクニックがあるか」ということで、まずは自分自身でいろいろ考えているところでございます。「まずかいよりはじめよ」という中国のことわざをまず自分に適用させようと思っております。
その団体では、「癒し」をテーマにしていろいろ話し合いをしたこともあります。
その時に、私は「世の中にはいじめネットワークのようなものが存在するのではないか」というようなことを考えていました。
例えば、学校で子供のいじめが起きたとします。いじめた子供は、実はその前に母親に厳しく叱られていたのかもしれません。厳しく叱ったその母親はその前日に姑にいびられていたのかもしれません。いびった姑はその前日に近所の別の女性から嫌味を言われてストレスがたまっていたのかもしれません。嫌味を言ったその女性は、その前に夫から冷たくされていたのかもしれません。冷たくした夫は、その前に会社の上司から仕事上のミスについてネチネチと説教を受けていたのかもしれません。説教をした上司は、その前に取締役から自慢話を聞かされてうんざりしていたのかもしれません。。。。。(以下ずっと続く)
学校でいじめられた子供は、「強いものは弱いものをいじめていいんだ。」ということを学習して、家に帰ってから、家で飼っている猫(とかペット)に残酷な仕打ちをするかもしれません。
世の中は、いろんなところでつながっており、そのつながっているネットワークを経由して、いじめが伝わっていく(伝播していく)のではないだろうか という仮説を私は立てたわけです。
この仮説を「いじめネットワーク仮説」と仮に呼んだとします。
「いじめられた人は、その腹いせに別の人をいじめて、スカッとする」ということが世の中のいたるところで繰り返し行なわれているのではないかという仮説です。 いろんなところで繰り返し、同じようなことが起きているという点でフラクタル的と言えると思います。
いじめられた人が、組織のなかで最も弱い存在で、それより下に弱い人がいないとします。するとその最も弱い人は、誰かをいじめることができずに、ストレスを抱えたままの状態になります。その人がストレスに耐えられなくなると、うつ病になって退職したり、自殺したり、逆ギレして刃物を振り回して凶悪犯罪を起こしたりするのではないでしょうか。
「いじめをなくすにはどうしたらよいか?」ということが、議論されることがあります。私はその解として、「たとえ、誰かにいじめられた時でも、(そのストレスを晴らすために)他の人をいじめない」というような方法(アイデア)を考え出して、それを世の中に広めてはどうかということを考えていました。
そのアイデアのひとつが、「癒し」ではないかと思うのです。いじめられて心がぐちゃぐちゃになっている状態の時に、それを癒すことができれば、他の弱い人をいじめなくてもすみます。いじめを伝播させずにすみます。
「癒し」のテクニックを編み出して、それをネットワークを経由して、世の中に伝えれば、いじめネットワークのいたるところでストップがかかります。そうすると、いじめがなくなり、平和な社会が訪れるかもしれません。(これは、なんと「世の中のいじめを俺様の手で止めてやろう。そしてそれがうまく行けば世界的なヒーローになってみせるぜ」という私の誇大妄想のひとつかもしれませんです。)
癒しのテクニックには、実はいろんな手段があるのではないかと思います。私は、例えば「好きな音楽を聴く」というのがそのひとつの方法だと考えています。「おもしろい話を聞いて笑う」とか「おいしいコーヒーをリラックスして飲む」などもありえると思います。
もうひとつのアイデアは、宗教の価値観をおおいに参考にさせて頂くということではないかとも思うのです。キリスト教では「相手を許す。」という教えがあったように思います。仏教でも「慈悲の心」というのがありました。
「自分より弱い存在を許す」、とか「慈悲の心で弱いものにやさしく接する」という価値観がそれじゃないかと思うのです。
さらに言うと、「癒し」の究極のテクニック(究極の極意)は一言でいうと「愛」のような気もします。
「愛は地球を救う」は、もともと世の中でよく言われている、みなさんがよくご存知のフレーズでございました。私ごときが改めて、えらそうに皆様に対して言うべきことではございませんでした。申し訳ございませんでした。この場をお借りしてお詫びさせて頂きます。
とりあえず、私の当面の関心事は、「癒しにはどのようなテクニックがあるか」ということで、まずは自分自身でいろいろ考えているところでございます。「まずかいよりはじめよ」という中国のことわざをまず自分に適用させようと思っております。
クリスマス
キリスト教の教えとして知ってるのは、
「許す」
「悔い改める」
「右のほおをぶたれたら左のほおを差し出す」
はじめの二つは何となくわかるのですが、3つめがよくわかっていませんでした。
でも最近になって、ひょっとしたらこういうことかと思っています。
例えば、職場で「お前は仕事ができない。役たたずめ!」と言われたとします。
それに対して、「おっしゃるとおりです。しかも、ハゲです。さらにちん●が短小です。」と言い返す(のど返し)ことかもしれません。
「許す」
「悔い改める」
「右のほおをぶたれたら左のほおを差し出す」
はじめの二つは何となくわかるのですが、3つめがよくわかっていませんでした。
でも最近になって、ひょっとしたらこういうことかと思っています。
例えば、職場で「お前は仕事ができない。役たたずめ!」と言われたとします。
それに対して、「おっしゃるとおりです。しかも、ハゲです。さらにちん●が短小です。」と言い返す(のど返し)ことかもしれません。
2017年12月24日日曜日
「あるがまま」になると仏智が沸いてくる
これは、以前に環境NGO の活動をしていた時に知り合った年配の女性から教わった言葉です。
彼女は、先生と呼ばれていて国際交流の活動も行っており、いろんな外国の人を自分の家に招待して、すき焼き料理をご馳走しながら話し合いの機会を持ったりしておられました。
仏智というのは、仏の知恵というような意味で、よいアイデアということだと思います。
「あるがまま」になると仏智が沸いてくる という文言の前に「欲を捨てて」という言葉があったかもしれませんがよく覚えていません。
「欲を捨て、あるがままの状態になると、仏の知恵が沸いてくる。」
というのは今の私にとっては貴重な考え方のひとつとなっています。教えてくださった女性に感謝しなくてはいけないと思います。
また その女性は、「あるがまま と ありのまま は違うのだ。ありのままではいけない。あるがままであることが重要」とも言っていたのです。 実は今になっても、その意味が、私には全然わからないままです。
「あるがまま」になると仏智が沸いてくる という法則があるとして、その法則を、部屋の片付けに適用してみようと考えました。
「部屋が非常に散らかっており、片付けることができない。」というのが、私の悩みのひとつです。「部屋を片付けなくてはいけない。片付けてきれいな部屋にしたい」という欲求をいったん捨て、あるがままの状態になるとします。
そうして、部屋を片付けることのできない自分をあるがままの状態で受け入れます。プライドを捨て「自分はそもそも部屋を片付けることすらできない情けない人物である。」ことを自分で認めます。
また、散らかっている部屋をそのまま、あるがままの状態で「これでよし。」と考えます。
つまり「散らかっている部屋はそのままでよい。この部屋は、自分にぴったりだ。」というふうに考えます。 すると苦しみや悩みがなくなり心が澄んですっきりとした状態、落ち着いた状態になります。
心が澄んだ状態で、もう一度その部屋を見回して意見ると、今まで気がつかなかった些細なことに気づくことになったりします。
その気づきが非常に大切です。部屋を片付けるためのヒントになったり、部屋の片付けに直接は関係なくても、自分が幸せになるための行動に結びついたりします。
そもそも部屋を片付けたいという欲求は、「もともとあまり幸せでない自分が、きれいな部屋で過ごすことにより少しでも幸せになりたい。」という意味ともとれます。
もし、何らかの方法により幸せになれるのであれば、部屋が散らかっているかどうかは、どうでもいいことに思えてくると思います。
彼女は、先生と呼ばれていて国際交流の活動も行っており、いろんな外国の人を自分の家に招待して、すき焼き料理をご馳走しながら話し合いの機会を持ったりしておられました。
仏智というのは、仏の知恵というような意味で、よいアイデアということだと思います。
「あるがまま」になると仏智が沸いてくる という文言の前に「欲を捨てて」という言葉があったかもしれませんがよく覚えていません。
「欲を捨て、あるがままの状態になると、仏の知恵が沸いてくる。」
というのは今の私にとっては貴重な考え方のひとつとなっています。教えてくださった女性に感謝しなくてはいけないと思います。
また その女性は、「あるがまま と ありのまま は違うのだ。ありのままではいけない。あるがままであることが重要」とも言っていたのです。 実は今になっても、その意味が、私には全然わからないままです。
「あるがまま」になると仏智が沸いてくる という法則があるとして、その法則を、部屋の片付けに適用してみようと考えました。
「部屋が非常に散らかっており、片付けることができない。」というのが、私の悩みのひとつです。「部屋を片付けなくてはいけない。片付けてきれいな部屋にしたい」という欲求をいったん捨て、あるがままの状態になるとします。
そうして、部屋を片付けることのできない自分をあるがままの状態で受け入れます。プライドを捨て「自分はそもそも部屋を片付けることすらできない情けない人物である。」ことを自分で認めます。
また、散らかっている部屋をそのまま、あるがままの状態で「これでよし。」と考えます。
つまり「散らかっている部屋はそのままでよい。この部屋は、自分にぴったりだ。」というふうに考えます。 すると苦しみや悩みがなくなり心が澄んですっきりとした状態、落ち着いた状態になります。
心が澄んだ状態で、もう一度その部屋を見回して意見ると、今まで気がつかなかった些細なことに気づくことになったりします。
その気づきが非常に大切です。部屋を片付けるためのヒントになったり、部屋の片付けに直接は関係なくても、自分が幸せになるための行動に結びついたりします。
そもそも部屋を片付けたいという欲求は、「もともとあまり幸せでない自分が、きれいな部屋で過ごすことにより少しでも幸せになりたい。」という意味ともとれます。
もし、何らかの方法により幸せになれるのであれば、部屋が散らかっているかどうかは、どうでもいいことに思えてくると思います。
2017年10月20日金曜日
ありがとうを量子力学で説明する
最近、というか2、3日前ぐらいから、村松大輔さんという人の動画を見るようになりました。この人はどうやら東大を出た人です。例えばよく「感謝の心が大事」というようなことを言われますが、そのことを量子力学の観点から説明しているように思えます。
また、この人の動画を見ると、オーラとか武術の「気」というのは、村松さんの言うフォトン(光子)のことではないかと思えてきます。
以前に、水に向かってありがとうと言うと水の結晶がきれいになるというような情報を聞いたことがあります。これもフォトンによる効果なのかもしれないと思えてきます。
また、この人の動画を見ると、オーラとか武術の「気」というのは、村松さんの言うフォトン(光子)のことではないかと思えてきます。
以前に、水に向かってありがとうと言うと水の結晶がきれいになるというような情報を聞いたことがあります。これもフォトンによる効果なのかもしれないと思えてきます。
2017年7月4日火曜日
欲しいものをすべて手に入れる
人は誰でも幸せになりたいと思うでしょう。
もし、「欲しいものをすべて手に入れる」ことができるとすれば、それは幸せと言ってもよいと思われます。
以前にある書籍(たぶん「神との対話」というようなタイトルの本)の中に「持っているものをすべて欲しいと思いなさい。」というようなことが書いてあったような記憶があります。
気づいたのは、もし「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思う」ということができれば、それは「欲しいものをすべて手に入れる」ということと同じではないだろうかということです。
したがって、もし幸せになりたいと思うのであれば、「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思え」ばよいということになると思います。そうするとその瞬間に自分が幸せになれる、もしくは既に自分は幸せであることに気づくということになります。
「持っているものだけをすべて欲しいと思う」 ということが幸せへの近道であるということに、どうやら私は気づいてしまいました。
これは、「深遠な真理」のような気もするし、同時に「言葉のあや」というか「論理の遊び」というか「言葉の遊び」のようなものであって「役に立たないし」「意味がない」ことのような気もします。
反証できないものをトートロジーと呼び、トートロジーは反証できないけれど役に立たず意味がないというような話を聞いたことがあります。そうしてトートロジーは宗教の教えなどにもあるというような話を聞いたことがあるような気がします。(もしかすると記憶違いかもしれません。)
だからトートロジーの一種なのかもしれないとも思います。
「幸せになりたければ既に持っているものだけをすべて欲しいと思いなさい。」というような教えがあったとして、それは「真理」なのか「言葉の遊び」なのか「トートロジー」 なのか「宗教」なのか自分にはよくわかりません。
でも例えば、黒い髪のアジア人がいたとして、金髪や茶髪にあこがれてばかりいたらあまり幸せとは言えないかもしれません。でも黒い髪であることの良い面に気づいて、その良い面ばかりを意識するようにしていれば幸せになれるような気はするのです。
自分の欠点と思っていることでも、見方を変えれば長所となる時もあります。自分の見方を工夫して常に長所となるように意識すれば、劣等感をいだかずにすむかもしれません。
自分が持っていないものばかりを数えるのではなく、自分の持っているものだけを数えるようにすれば良いような気もします。
もし、「欲しいものをすべて手に入れる」ことができるとすれば、それは幸せと言ってもよいと思われます。
以前にある書籍(たぶん「神との対話」というようなタイトルの本)の中に「持っているものをすべて欲しいと思いなさい。」というようなことが書いてあったような記憶があります。
気づいたのは、もし「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思う」ということができれば、それは「欲しいものをすべて手に入れる」ということと同じではないだろうかということです。
したがって、もし幸せになりたいと思うのであれば、「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思え」ばよいということになると思います。そうするとその瞬間に自分が幸せになれる、もしくは既に自分は幸せであることに気づくということになります。
「持っているものだけをすべて欲しいと思う」 ということが幸せへの近道であるということに、どうやら私は気づいてしまいました。
これは、「深遠な真理」のような気もするし、同時に「言葉のあや」というか「論理の遊び」というか「言葉の遊び」のようなものであって「役に立たないし」「意味がない」ことのような気もします。
反証できないものをトートロジーと呼び、トートロジーは反証できないけれど役に立たず意味がないというような話を聞いたことがあります。そうしてトートロジーは宗教の教えなどにもあるというような話を聞いたことがあるような気がします。(もしかすると記憶違いかもしれません。)
だからトートロジーの一種なのかもしれないとも思います。
「幸せになりたければ既に持っているものだけをすべて欲しいと思いなさい。」というような教えがあったとして、それは「真理」なのか「言葉の遊び」なのか「トートロジー」 なのか「宗教」なのか自分にはよくわかりません。
でも例えば、黒い髪のアジア人がいたとして、金髪や茶髪にあこがれてばかりいたらあまり幸せとは言えないかもしれません。でも黒い髪であることの良い面に気づいて、その良い面ばかりを意識するようにしていれば幸せになれるような気はするのです。
自分の欠点と思っていることでも、見方を変えれば長所となる時もあります。自分の見方を工夫して常に長所となるように意識すれば、劣等感をいだかずにすむかもしれません。
自分が持っていないものばかりを数えるのではなく、自分の持っているものだけを数えるようにすれば良いような気もします。
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