人は誰でも幸せになりたいと思うでしょう。
もし、「欲しいものをすべて手に入れる」ことができるとすれば、それは幸せと言ってもよいと思われます。
以前にある書籍(たぶん「神との対話」というようなタイトルの本)の中に「持っているものをすべて欲しいと思いなさい。」というようなことが書いてあったような記憶があります。
気づいたのは、もし「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思う」ということができれば、それは「欲しいものをすべて手に入れる」ということと同じではないだろうかということです。
したがって、もし幸せになりたいと思うのであれば、「自分が持っているものだけをすべて欲しいと思え」ばよいということになると思います。そうするとその瞬間に自分が幸せになれる、もしくは既に自分は幸せであることに気づくということになります。
「持っているものだけをすべて欲しいと思う」 ということが幸せへの近道であるということに、どうやら私は気づいてしまいました。
これは、「深遠な真理」のような気もするし、同時に「言葉のあや」というか「論理の遊び」というか「言葉の遊び」のようなものであって「役に立たないし」「意味がない」ことのような気もします。
反証できないものをトートロジーと呼び、トートロジーは反証できないけれど役に立たず意味がないというような話を聞いたことがあります。そうしてトートロジーは宗教の教えなどにもあるというような話を聞いたことがあるような気がします。(もしかすると記憶違いかもしれません。)
だからトートロジーの一種なのかもしれないとも思います。
「幸せになりたければ既に持っているものだけをすべて欲しいと思いなさい。」というような教えがあったとして、それは「真理」なのか「言葉の遊び」なのか「トートロジー」 なのか「宗教」なのか自分にはよくわかりません。
でも例えば、黒い髪のアジア人がいたとして、金髪や茶髪にあこがれてばかりいたらあまり幸せとは言えないかもしれません。でも黒い髪であることの良い面に気づいて、その良い面ばかりを意識するようにしていれば幸せになれるような気はするのです。
自分の欠点と思っていることでも、見方を変えれば長所となる時もあります。自分の見方を工夫して常に長所となるように意識すれば、劣等感をいだかずにすむかもしれません。
自分が持っていないものばかりを数えるのではなく、自分の持っているものだけを数えるようにすれば良いような気もします。
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